・英語嫌いは精一杯努力している
『テーマ』
本当に努力不足と言えるか? 精一杯やってはいないのか?
【苦手な人へ】
もしあなたが英語の先生にや英語好きの友達に「お前が英語ができないのは勉強不足・努力不足の所為だ」と言われたとする。そう言われたら不快であろう。しかし気にすることはない。
理由・あなたはちゃんと勉強し、努力をしたはずだから。(少なくとも最初はそうだから)
例えば、ここで100人の生徒で100m競争をしてみよう。絶対に「100人が100人、全員同タイムでゴール」しない。必ず1番から100番までの着順が決まる。この場合、果たして「1番の生徒が1番努力し、100番の生徒が1番の努力不足である」と言えるだろうか?
残念ながら「(たまたまの)才能」というモノが加味されるはずである。仮に同じ分だけ努力しても、タイムは100人でばらつくはずだ。
あなたの英語の成績の結果も同様の要素がある。努力しても「語学の才能のばらつき」の所為で、結果はバラつくのだ。
あなたは一生懸命走ったのだ。それを「努力不足だ」と言う方がおかしいのだ。(ではどうすれば良いかについては次回で語る)
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【指導者へ】
もしあなたが英語ができない生徒に「お前が英語ができないのは勉強不足・努力不足の所為だ」と言っているとする。そう言われたら生徒はどのように不快かわかるであろうか? 私はそのような言葉をけっして言うべきではないと思う。
理由・英語嫌いもちゃんと勉強し、努力をしたはずだから。(少なくとも最初はそうだから)
上で述べたが、あなたは「才能の差」というものを加味しているだろうか? 努力しても「才能の差」で、英語の点数が取れないことは十分あるのだ。
ここで、次の「(あなたの)昔話」を考えてもらおう。
あなたが小学校の頃、「算数のテスト」があったはずだ。あなたは成績は良かっただろうか? もしあなたが「算数嫌い」であったならば、結果は悪かったはずだ。
その時、絶対に近くに何人かいたはずだ。算数の天才が。そいつらの【頭のでき】に「嫉妬」しなかったか?
そして彼らに「なんでこんな易しい算数の問題が解けないの? お前、勉強不足なんじゃないの?」と言われたとしよう。(もしくは言われたことがあるのではないか?) それを「不快」に思わないでいられるだろうか?
その時「自分は勉強不足である」...と素直に認められるか? 「勉強したけど、うまくいかなかった。だから高得点には成らなかった。だからする気がなくなった」...ではなかったか?
あなたは、算数を勉強する気がない中でも精一杯努力はしたはずだ。あなたは「できればいい成績を取りたかったはず」なのだから。でも結果に響かなかったという結果なだけだ。
英語の成績が悪い生徒はそれと同じだ。「勉強したけど、うまくいかなかった。だから高得点には成らなかった。だからする気がなくなった」のだ。
英語が苦手な生徒は、英語を勉強する気がない中でも精一杯努力はしたのだ。英語が苦手な生徒も「できればいい成績を取りたい」のだから。でも結果に響かなかったという結果なだけだ。
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【マウスバードの一言】
私は中学・高校では英語で赤点しか取れなかった。当時、英語の先生・親・兄弟・友人から「お前は勉強不足!」と言われまくった。確かに当時「猛勉強」をした覚えはない(それをやったのは浪人の時である)。しかしそれほど「勉強しなかった感」はない。当時の「精一杯の勉強」をやったと思う。
私は、語学の才能が無かった。
英語もひどかったが、漢字も苦手であった(今も)。
算数の才能があった私は、つくづく「語学の才能はない」と認識している。だから英語は成績が悪かったと自分では思う。
もし、英語が苦手な生徒に「勉強不足!」...と言い放つならば、代わりに別のことを英語の先生にはして欲しかった。それは次回に語る予定である。
今週の金曜日は文法放送。この続きは来週の月曜日です。