今回はもう1つ「英語で英語の授業がなされた場合」のネガティブ要素を挙げましょう。
「英語で英語の授業が行われた場合の主眼の目的」はいったい何なのでしょう?
私が思うにそれは「英語を話せるようになること」なのではないでしょうか?
先生は英語を話し、生徒はその英語を聞いて、英語で答えるのでしょうから。
違うでしょうか?
だとしたら、実にばかげた発想です。
少なくとも今の大学受験を前提にすれば。
大学受験問題は、英語が話せる能力を問うていないのだから!
大学受験で要求される能力は
長文を読む能力
が8割なのです。
英語が話せる能力? そんなもの1%だって聞かれませんよ。
試験に出ない能力を養ってどうするの?
私には、「野球の試合で勝たなければならないのに、練習はランニングだけをさせられているような感じ」に思えます。
そりゃあ、ランニング練習で足は速くなるかもしれません。
仮に足が速くなったとしても、バッティング練習や守備練習を積み重ねなくては試合では打てなかったり、エラーばかりになるのではないでしょうか?
そりゃあ、ネイティブ並に英会話ができれば読むことだってある程度はたやすいかもしれません。
しかし、高校の英語の授業が英語でなされるぐらいで、生徒がネイティブ並に英語が話せるようになると考えられますか?
前回を見てください。実際についていける人なんて10%ですよ。
90%は話せる能力すら身につかない。
で、しかも、大学受験の試験問題は別に会話能力を問うていない。
大学側は「英文を読める能力」を問うているのです。
それを英語で英語の授業をでやろうとしたら、この回で示したとおりその力を養えない。
これを普通「効率が悪い」と日本語で言います。
いかがでしょうか?
次回は木曜日の更新です。多分このシリーズの最終回になります。