では始めましょう。
まずそもそも、ここで『1つの疑問が(湧くひとは)湧く』のです。
「和訳例を作らないってどういうこと?」
という疑問です。
実は私はこのタイプ(この疑問が湧く人)でした。
最初、私は
「和訳例を自力で作らなくて良いのだ。最初から正しい和訳例を見れば良いのだ」という意味なのか、と思っていました。
今、ここを見てる人も同じふうに思う方がいらっしゃると思います。
実は、必ずしもこの意味を指さないのです。(指す場合もありますが)
このタイプは「『和訳例』というか『対応する日本語文』がないと安心できない・理解できないタイプ」です。
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実は「そうではないタイプの人」も大勢いるのです。日本語文の必要性を感じないタイプなのです。
「このタイプの人」は概ね↓こんな感覚です。
「単語とか、ある程度の単語の塊の意味だけ拾ろって行けばさー、大体の意味が分かるだろうに。それで良いではないか?」
このタイプは「大体の意味がつかめれば良し!」とするタイプです。「大体で問題がない・安心できる」というタイプです。
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実は、
前者は英語が嫌いになる確率が高い
(高いだけである・好きになる人も大勢いる)
後者は英語が好きになる確率が高い
(好きになるが、成績が高校で下がる人も大勢いる)
(英語が嫌いな人はあまりいない)
はずです。
実は、この違いが、今回のテーマ「和訳例を作るべきか」という問題に大きく関わってきます。
この違いの影響は無視できないのです。
この「違い」の話は、次々回か、それ以降でお話します。
次回は、日本の受験英語の歴史上での「和訳例」についてお話します。
明日はいつもの文法放送。この続きは来週の月曜日です。